JR石川町駅から山手の高台方面へ20分ほどのんびり歩き、フェリス女学院のさらに奥へ進むと、ヒマラヤスギの並ぶ山手公園が見えます。
ここは1870年、イギリス人のW・H・スミスが中心となり、当時の外国人たちが明治政府から土地を借りて、居留外国人のレクリエーションの場として作った公園です。
この公園こそが、日本のテニス発祥の地なのです。
今回は、その歴史についてご紹介します。
横浜市の山手公園が日本のテニス発祥の地となった経緯
それから2年後の1876年6月、日本で初めてのテニスが山手公園で行われたと「ジャパン・ウィークリー・メール」という新聞に記事が載っています。
また当時のテニスはそれまでのスポーツと違い、男性だけでなく女性も楽しめるスポーツとして親しまれたということが大きな鍵となります。
1878年、横浜在住のイギリス婦人達の間で「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケークラブ」が結成されました。
当時女性向けのクラブは注目を集め、フェリス女学校をはじめ近隣の学校がテニスを取り入れたことで、日本国内でもテニスが広まっていきました。
そのクラブは後にイギリス以外の外国人女性や男性も受け入れ、1956年から日本人もメンバーに加えた国際親善の組織となります
そして1982年に「社団法人 横浜インターナショナル・テニス・コミュニティー(YITC)」と改名し、今日にいたるまで活動を続けています。
また現在、山手公園内のテニスコートのクラブハウスとして利用されているのは、震災後に山手68番の奥まった位置に建設された外国人向けの賃貸住宅を再建したものです。
横浜市にあるテニス発祥記念館で歴史や展示を見学しよう
公園敷地内にあるテニス発祥記念館は、1898年に開館しました。
横浜市が山手の雰囲気に合わせて建てた建物の中には、館長であり、関東学院名誉教授である鳴海正泰氏のコレクションや、YITCが寄贈した品が展示されています。
展示からもわかりますが、当時のテニスは婦人達が馬車に乗り、紅茶やお菓子を持参でクラブへ集まり、長いスカートに長手袋という姿でゆったりとするスポーツだったようです。
その長いスカートを吊り上げるアクセサリーや、竹でできた珍しいラケットなど、興味深い展示物が数多く揃えられています。
また、一部のラケットなどは実際に手にすることもできます。
テニスに関する資料がこれだけ集まっている場所は、日本ではこのテニス発祥記念館しかありません。
まとめ
今や世界で活躍する日本人のプロテニスプレイヤーも多くいますが、その始まりは全てこの横浜市の山手公園です。
居留外国人が造園後、関東大震災や横浜大空襲の被害、アメリカの接収を経て現在は横浜市の管理下にありますが、テニス発祥の地として伝統を守り続けています。
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