皆さんは、横浜の関内という地域をご存知でしょうか。
JR京浜東北・根岸線と市営地下鉄ブルーラインが乗り入れる関内駅があり、みなとみらいにも近いため、神奈川近郊に住んでいる方なら知っている方も多いでしょう。
現在は駅名にもなっている関内ですが、実はかつて「関外」と呼ばれた地域があった歴史を知っている方は少ないと思います。
今回は、横浜の歴史の一つである関内・関外についてご紹介します。
横浜の関内・関外の由来は?
1853年、横浜はペリー来航と共に開港し、多くの外国人が生活をする場所となりました。
この出来事は横浜に活気をもたらしましたが、一方で外国人と日本人の接触する機会が増加し、トラブルが発生するリスクも高まりました。
そこで、関門という名の関所を設けて武士など日本人が出入りすることを取り締まったという歴史があります。
関門が設けられたのは「吉田橋」で、現在は駅そばの伊勢佐木町に石碑が建っています。
この「吉田橋」を境にして関門の海側を関内、伊勢佐木町がある陸側を関外と呼んでいたのです。
関所ができる以前の関外は遠浅の海で、農業や漁業を中心とした集落が分布していました。
この遠浅の地区を江戸時代に新田開発として干拓し、複数の運河が流れる「吉田新田」が完成しました。
ただ、吉田新田の工事が完成するまでには、大雨や堤防決壊など幾多のトラブルが発生し、約11年の月日を要したそうです。
多くの苦労を乗り越え、一帯は吉田新田の開発によって陸地面積を大幅に拡大することに成功しました。
横浜にあった関内と関外の現在
関内地区が整備されたきっかけは、過去に起きた大火事が原因と言われています。
当時、伊勢佐木町を経由する馬車道は日本人も外国人も多数往来する繁盛地域でしたが、1866年に豚肉料理屋から出火した「豚屋家事」によって、多くの家屋や商館が消失しました。
その後の再編時に道路幅を大きく取った日本通りに反映されているように、火災に備えてゆったりとした区画整備がされています。
一方、関外は時代の流れとともに運河が埋め立てられていき、現在は多くが住宅地や公園などへ生まれ変わっています。
まとめ
横浜の関所となった関門を境に関内と関外と地域が分けられ、どちらも横浜の発展に寄与してきました。
当時からは大きく様変わりしましたが、街を歩くとその歴史が垣間見えるスポットが点在していますので、引っ越し後はそういったスポットを巡ってみると面白いかもしれません。
今の光景とは全く違う歴史をあちこちで楽しめる横浜市で賃貸物件を探すなら、横濱コーポレーションまでぜひお気軽にお問い合わせください。