現在、私達は不自由ない生活を送ることができていますが、これも今までの日本における文化や技術の発展によるものです。
では、この文化の発展があったきっかけは何であったかご存知ですか?
横浜市で締結された日米和親条約もきっかけのひとつとなっています。
今回は日米和親条約についてと、それからの横浜と日本の歴史をご紹介いたします。
横浜市の開港①日米和親条約はいつ行われたの?
日米和親条約は、1854年3月3日に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約です。
このとき日本は入出国や貿易を禁止する鎖国の真っ最中で、孤立状態にありました。
その状況を打開し、貿易の自由化を求めていたアメリカはペリーが軍艦を率いて浦賀に入港しました。
それが締結前年にあった「黒船来航」です。
ペリーは日本に対して大統領の親書を手渡しして開国を要求しました。
そして、再び1854年2月10日に軍艦を率いて横浜に上陸しました。
迫られた日本はアメリカと4回に及ぶ会談と書面の交渉を行い、3月3日に締結に至りました。
これは日本における開国・開港への歴史的タイミングとなりました。
横浜市の開港②日米和親条約はどこで行われたの?
会談を行い、締結に至った歴史的舞台の場所は現在の横浜市です。
会談は現在の横浜開港資料館に応接所を設けて行われました。
また締結は、横浜開港資料館のそばの開港広場と呼ばれている場所で行われました。
現在、その開港広場には地球儀の形をした日米和親条約調印の石碑が建てられています。
横浜市の開港③日米和親条約の内容は?
4回にわたる会談によって締結された日米和親条約の主な内容は以下の通りです。
・漂流民の救助・引き渡し
・アメリカに物資(薪水・食料・石炭)を補給するための伊豆下田・函館2港の開港
・下田への総領事の設置
特に下田・函館の開港は、日本の鎖国体制の終焉といえ、近代文化の発展へと繋がります。
日米和親条約締結後の横浜や日本は?
そこから1858年に日本最初の通商条約「日米修好通商条約」が結ばれます。
この条約で開港地が増え、その中には横浜も含まれました。
これにより横浜には多くの欧米人が来往し、その結果横浜市内にはさまざまな欧米文化の重要施設が残っています。
またこの条約はアメリカ有利の条約であるため、欧米製品が国内に入りやすくなりました。
よって日本は近代文化への急速な発展に繋がりました。
まとめ
いかがでしたか。
日本の文化や産業が発展したのは日米和親条約がきっかけでした。
その条約は横浜市が深く関わっているのです。
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