明治5年(1872年)日本の鉄道は、日本橋と横浜間で誕生しました。
日本が文明開化して、近代文明への第一歩として鉄道が敷かれ、飛躍的に交通が発達したのです。
今回は、そんな日本の鉄道発祥の地、横浜市の鉄道の歴史を掘り下げてご紹介します。
横浜市が開国港になり鉄道が敷かれた理由
日本は江戸時代、鎖国政策を貫いてきましたね。
外国との貿易を長崎の出島だけに限定してきたという歴史が、長きにわたり受け継がれていたのです。
しかし、1853年にペリーが黒船で浦賀沖に現れたことにより、歴史が一変します。
ペリーらの再三に渡る交渉の結果、1858年には日米修好通商条約が結ばれ、日本の港を開港する事になりました。
そこで開港する港として候補に挙がったのが、東京からほど近い神奈川港と横浜港でした。
最終的に、庶民とある程度の距離を保っていた漁村である横浜港を貿易港と定めたのです。
開港した横浜港には、外国から多くの船が到着し、日本中から様々な商人や業者が貿易品を買いに集まってきました。
その結果、東京都心までの効率的な輸送手段が必要になり、西洋ですでに発展していた鉄道開業が検討されたのです。
日本初の鉄道は、日本橋と横浜間に作られる事になりました。
やがて小さな漁村だった横浜港は、歴史的な開港から貿易と交通の拠点として現在の様に発展の歴史を刻むことになったのです。
開業当時の横浜市の交通
江戸時代の主な交通手段は、徒歩や駕籠(かご)、馬などでした。
明治になって人力車や馬車が発達しましたが、貿易船からの荷物は大量で重たいため、一度に運ぶ交通手段が必須となったのです。
明治5年9月に日本橋と横浜間に鉄道が開業し、貿易船からの荷役の他、人の移動も行うようになりました。
当時の人の運賃は、日本橋と横浜間で3段階あり、一番豪華な上等が壱円五拾銭、中等が壱円、下等が五拾銭です。
現在の価値だと壱円が2万円の価値なので、壱円五拾銭の上等だと3万円、中等で2万円、下等でも1万円程になります。
日本橋と横浜間の所要時間が約50分だったので、上等だと3万円ですから、運賃がどれだけ高かったかお判りになるでしょう。
それでも当時、一度は蒸気機関車に乗ってみたいという人で駅は賑わっていたようですよ。
当時は、死ぬまでに一度は乗ってみたいという人がたくさんいたそうです。
横浜市の交通は、当時の日本で最先端だったのです。
近代化した横浜市の交通
明治・大正の時代を経て、横浜市から始まった路線は次第に拡大していきました。
なぜなら、鉄道事業によって多額の黒字を出す事に成功したからです。
当初は、横浜と日本橋間の運賃が高額だったのですが、乗車人数は少なかったため、値下げしました。
開業翌年の売り上げは42万円、現在の価値で88億円もあったそうです。
その後、日本は30年程で約7,000キロの路線を整備し、交通近代化を成し遂げたのです。
様々な文化を取り入れながら街が発展し、現在のような横浜へと変貌を遂げていきました。
まとめ
横浜市の歴史は、鉄道の歴史とほぼ同じと考えて良いですね。
それまで、多くの漁民が暮らしていた横浜が、明治の近代化という荒波に飲み込まれ、あっという間にハイカラな街に発展しました。
多くの人や船、外国人が集まり、明治初期は活気にあふれかえっていたそうです。
まさに、日本中から注目された都市だったのですね。
現在でも横浜の街の至る所に、野球発祥の地(横浜公園)、赤レンガ倉庫群など歴史を感じられる場所を見ることができます。
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